小ぶりの顔が乗った白いうなじを前に出して「ペンとメモ用紙はありませんか」と浜田由紀子(50代 仮名)さんは言った。私は内ポケットからボールペンを取り出してからゴソゴソと鞄の底を探し、数枚のA?4のメモ紙を手渡した。2006年2月3日、10時半。場所は遊学舎の別館の食事室。ガラス窓が雪囲いの板で塞がれている。板との隙間から漏れた雪明かりの束が、浜田さんの肩から胸元にかけてほんのりと照らしていた。薄暗い部屋で彼女は笑みを浮かべながら語り出した。
まず、渡された白紙を目の前に置いて、両親と子供2人の系図を書いた。父親を左端に、母親を右端に。線の細い小さな几帳面な字だった。両親の下に縦の線を引き、両端に本人の名前の「由紀子」と妹の名前を表示した。会社の組織図のように・・・・。
「私は茨城県の○○市に生まれました。妹と2人姉妹です。父親は私が8才のときに亡くなりました。妹は母親が引き取り、私は母親の遠縁の親戚を頼ってA町(秋田県の南部の町)の叔父に預けられました。5才でしたから物心がついておりました。預けられた日のことをはっきり記憶しています。茅葺の大きな家の庭先で、母親の姿を追いかけて泣きました。母親は2歳の妹の手を引いて去っていきました。一度も振り返りませんでした。母との別れはそれきりです。母親は妹を連れて再婚したとのことです。叔母は自分の子供のように面倒を見てくれました。叔母には男の子が2人いました」と言って、養親の家系図を自分の家系図の隣に並べた。養親の子供達が2人、横線の下に2本、棒のように下がった。
「預けられた家は地域の名家でした。大地主です。義理の父親も郵便局長をしていました。立派な人格者です。ただ、私は預けられた子供である、との気持ちが消えることはありませんでした。養父母に迷惑はかけられない、お利巧な子供でいなければいけないと、いつも思っていました。子供の頃から、貰ったお小遣いも無駄遣いはしませんでした。叔母さんには内緒でしたが、貰ったお金は全部貯めていました。地元の高校を卒業してから上京し、T大学付属の看護学校に入ったのです。看護学校でもアルバイトで稼ぎ、叔父さんや叔母さんには金銭的な迷惑はかけずに卒業したのです。そのまま、T大学の付属病院の看護師になって働いていました。縁があって秋田県出身の夫と結婚して故郷に帰り、働くことになりました」。
語り口は、母親が子供に童話を読んで聞かせるような口調である。
「公立の病院で看護師として5年間働き、転職して隣町の社会福祉施設に勤務しました。その職場の上司と肌があいませんでした。徹底的に苛められました。初めは、自分にも責任があると我慢をしていましたが、陰湿な嫌がらせがやみませんでした。2年間も苛められました。上司は、私を辞めさせにかかったのです。部下にも指示して、仕事を与えませんでした。集団の虐めを受け、苛め抜かれました。次第に追い詰められました。精神が異常な状態に陥りました。今にして思えば、転職すれば良かったのですが・・・・・・」。
話の内容が理路整然としている。
「追い詰められて、うつ病になり精神が不安定になりました。体に変調が現れたのです。生理が停まらなくなりました。出血が激しく、停まりません。じゃぶじゃぶ出血するのです。オシメをして仕事をするようになったのです」。仕事柄であろうか、女の体の様子をからりとした表現で話す。聴いている方に不快感を与えない語り口である。
「そして、こころの底で、『私を苛め抜いている上司を殺してやれ』と、もう1人の自分がささやくようになったのです。その一方で、『こんな精神状態で上司に会うと何をしでかすか知れない。上司と顔を会わせるのを避けた方がいい』と諭す、もう1人の自分がおりました」。
煩悶が3ヶ月続いた、残雪の3月のある日、藤田さんは自殺を決行した。
「自宅から橋までどうやって辿りついたかわかりません。紐を首に巻いて、橋の欄干から川に吊り下がりました」。
私はその橋を知っていた。
橋は秋田県の北部にある。川の対岸に小山が2つあって、小山の裾の川岸に数軒の住宅がへばりついている。開設したばかりのローカル空港に通ずる橋である。橋は国道7号線(秋田県と青森県を結ぶ幹線道路)から遠望される。川幅が広く、国道から川までの低地が水田である。橋は川を跨いでいるだけではなく、水田の上に土塁を積んだ延長上にある長い橋である。空港の連絡道路は車の通行量がまばらである。
私のイメージ脳に、顎を天にそり返し、橋の欄干と川面の中間点に紐で吊り下がった浜田さんの姿が見えた。遠め目には黒点で、芥子粒のような姿であった。
「どうやって助かったの」。私は思わず聞いた。
「自殺を図った直後に車が通ったのです」。
会員の一人も問いかけた。
「紐を引っ張って助け上げたのですか」。
バンジージャンプのように、首に長い紐を巻いて、川に飛び込んだと思ったからであろう。
「数人で抱きかかえて、引き上げてくれたようです。何人かで脇の下に手を入れて引き上げたようです」。
橋の欄干から手が届く位置に、だらりと吊り下がったのだ。
「気が付いたら、鉄格子がはめられた精神病院の一室でした。7日間意識不明でした」。
自分の行為を他人の行為のように客観視し、からりと語った。
「今の話は何時のことなの?」私は重ねて聞いた。
「去年の3月3日です」。
「まだ、1年もたっていないじゃない」。
「意識を取り戻したのは、自殺をした日から7日後でした。精神病院の個室で息を吹き返したのです。目が醒めたら鉄格子の中でした。仕事が看護師ですから、精神科の患者を相手にしたことは何度もありますが、自分が患者になって精神病棟に入ることになるとは思ったこともありませんでした」と言って、白い歯をこぼし、顎を上げた。自殺の跡が残らなかったと、白い喉元を見せた。首に紐の痕跡はなかった。
思いもかけない話の結末であった。私はとっさに、目の前の浜田さんの体形から身長と体重を推し量った。身長は150cm位、小ぶりの軽い体重は何キロあるであろうか。40キロ位か、もう少しか。
そして、目の前の浜田さんを凝視した。
幾つもの「もしも」が重なり、紙一重で浜田さんは生き残ったと思った。
もしも、車の通った時間がもう10分遅かったら、助からなかったであろう。もしも、紐が50センチ長かったら、助ける人の手が届かなかったかも知れない。もしも、体重がもう10キロ重かったら、喉元に深く紐が食い込んだのではないか。実行日、実行時間がほんの少しずれていたら。もしも、救急車がもう30分遅れたら。
どの「もしも」が1つ的中しても、命はなかっただろう。運命のエンジェルは、浜田さんの手を取って、紙一重の「もしも」の間隙をするりと通り抜けた。人間の生と死を分けるものは「偶然の瞬間である」と思った。
はかなげな笑い顔に、生き返った者だけのいのちを輝かせて、「精神科の鉄格子だけは、もうこりごりです」と浜田さんは話を終えた。
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