被災地支援の最前線

〜 目 次 〜




20.津波襲来時の証言(陸前高田市)

2012年7月15日(花巻市大沢旅館にて)

陸前高田市 熊谷勝也さん(74歳)の証言
熊谷さんの自宅は「奇跡の一本松」を目の前に望む高台にある。
高台からは対岸と広田湾の入り江が見える。狭い入り江の向こうが太平洋だ。2011年3月11日午後2時46分、熊谷さんは防潮堤の近くの海岸沿いを散歩中であった。地震の瞬間に、身の危険を察知した。震度が今までの地震とは揺れが違う。揺れの激しさで「これは大きな津波がくる」と直感し、急いで車に飛び乗った。自宅に戻ろうとしたが、交差点の信号機が消えている。交差点は車が渋滞していた。まず海から離れなければと思い、渋滞を避けて小道に入り山の方向に逃げた。迂回しながら山道を走って自宅に辿りついたのは地震の約40分後であった。

以下は、津波の襲来を見た熊谷さんの証言である。
広田湾の遥か彼方で海面が盛り上がった。海の水はゆっくり膨れ上がり、海面は生き物のようにくねった。入り江の全体が、波の高さでふさがった。波の速さは最初は緩やかであった。白い波頭の先端が割れている。海岸線に近づくにつれて津波はものすごいスピードになった。波頭が何重にもなった。津波は港近くで、「ザザザー」「ザザザー」と大音響を発した。津波の第一波で「7万本の松」が次々となぎ倒される。陸地に押し寄せた津波は住宅、店、事務所や車を呑み込んで、市街地の奥に入り込んだ。津波の色は、初めは先端が真っ白であった。海岸に近づくに連れて砂を巻き上げて真っ黒に変化した。市街地を進むに連れて、噴煙が巻き上がる。波は建物や車を乗せて茶色と黒が混じったような色になって市街地の奥深くに入り込んでいった。

地震が起こってから津波が来るまでは約40分ある。住民が避難する時間は十分にあった。ところが、すぐに避難する人は意外にも少なかった。住民はこれまで頻繁に地震を体験している。地震慣れしていて、これほどの波が押し寄せるとは誰も予想しない。そこに油断があった。市街地からは海岸線の松林に遮られて海の様子が見えない。津波が近づくまで気が付かなかった。その為に逃げ遅れた。病院、市役所は4階まで津波に襲われていた。4階以下におった人達は犠牲になり、5階または屋上に逃れた人達は助かった。

熊谷さんはさらに語る。
「死んだ人達の半分は寄せ波で亡くなり、半分は引き波で海に運ばれていったと思います。津波は「鳴門の渦」のように潮が巻きました。海底の地形によって波の形が変化したのでしょう。この近くで行方不明の人が5キロも向こうの集落で遺体になって発見されました。波がかなり山の奥まで入っていったことが分かります。市街地の人達は逃げる間もなく津波に浚われました。逃げないままに死んだ人が大部分だと思います。一度逃げたが、また戻った人達も津波に飲まれて死んでしまいました。避難場所の公民館で津波に、襲われて死んだ人もいますが、皮肉にも、その人の自宅は無傷でした。逃げないで自宅におれば死ななくて済んだのです。車が渋滞した時点で、車を乗り捨てて高台に走ったならば命は助かったでしょう。地震から波が来る間に逃げる時間は存分にありましたから・・・・。こんなこともあります。住民の多くは、体育館に避難しました。そこが避難場所であったからです。体育館は満杯で入りきれませんでした。そのために「あなたはもう入れません」と言われた人もいます。犬を連れて体育館に入ろうとして断られた人もいます。その人達は高台に走りました。それで助かったのです。体育館に避難した人のほうが波にのまれて命を落としました。

「あれから一年経ちました。熊谷さん、震災の日を思い浮かべると、どんな気持ちになりますか」と現在の心境を聞いた。
「この恐ろしさは、自分の目で見ない限り到底分からないだろう。目の前を住宅や車や人が流されるのを見て「あ〜あ〜」という言葉しか出ませんでした。怖いという気持ちさえも起こりませんでした。あまりにも惨めで・・・・・。目の前を引き波に乗って神社が流されていきました。屋根の格好をみるだけで、どこの神社が流されているのかが分かりました。中には、住宅の屋根の上に乗って『助けてくれ』と手を振っている人もいました。」

「震災が治まってからはどうなさいましたか」
と聞いた。
「親戚や身内の安否の確認に歩きました。身内、親戚等が20人ほど亡くなっています。あちこちに行って遺体を捜していました。確認した遺体は泥にまみれて真っ黒でした。水を飲んだためか、遺体はパンパンに膨らんでいた。未だに身元が分からない人もいます。」

熊谷さんの住宅は、国道沿いの高台である。一段低地の隣接住宅は、津波に襲われて解体していた。僅かの高低差が災害と無事の分かれ目になった。熊谷さんの津波襲来の証言は、体験者だけにしか語れない臨場感があった。

港の近くで津波来襲時の状況を説明をする熊谷さん

秋田・青森の民間団体で熊谷さんの話を聞いた

21.生死を分けた瞬間

2012年7月15日(大槌町タカマス民宿にて)

岩手県釜石市で相談を開始してから一年半になった。2011年4月に被災地入りして、延べ滞在日数も70日以上になった。これまで街の中で被災地住民の声に耳を傾けてきた。震災当時は口を硬く閉ざしていた住民もようやく重い口を開くようになった。時間の経過がこころに余裕を復活させたのであろうか。震災の恐怖を他人に語ることで、生き残った者の安堵感を確認しようとしているのかも知れない。津波災害を逃れて生き残った人達の運命が「偶然」なのか「必然」なのかの判断はつかない。しかし、とっさの判断が生死を分けたことだけは確かである。以下は「陸前高田市」「釜石市」「大槌町」で聴いた「生き残った人達」の瞬時の判断である。

釜石市(佐藤 綾子さん70代 2012.5.11の証言)
3月11日2時46分、佐藤さんは明治安田生命の事務所で仕事中であった。勤務場所はビルの3階にある。いきなりの激しい振動である。仰天してパソコンを閉じて、エレベーターに乗ろうとしたらエレベーターが動かない。停電でエレベーターが停まっていた。慌てて3階から階段を駆け下った。外に出ようとしたら、一階の入り口のドアの扉も閉まっていた。シャッターの金属が曲がってしまったのだ。通りに出て避難しようとして、向かいの飲み屋の女将さんと鉢合わせた。女将さんに「市営駐車場の方は車が渋滞しているから行かない方がいい」と言われた。必ず大きな津波が来ると言う。

何時もであれば、佐藤さんの車は会社の裏側の駐車場に停めている。その時に限って会社の向かいの路上に車を停めていた。その日はお客さん回りであった。会社への業務報告を終えるため、路上に車を停めて、会社に立ち寄ったのであった。車まで道路を横切って走ろうとしたが腰が抜けている。立つことも、歩くことも出来ない。歩道にしゃがみこんでしまった。腰が抜けて立ち上がれない。知り合いの女の人に抱えられて車に乗り込んだ。殆どの車は市街地を逃れるために甲子川方向に向っている。道路は渋滞で身動きが取れない状態である。幸運にも佐藤さんの車は反対方向に向いていた。ガランと空いていた道を石応寺の上にある青葉公園まで避難した。それからは青葉公園にしゃがみ込んで津波の襲来を見続けた。

まず港に迫った津波は魚卸市場を破壊した。波は防潮堤を越えた。町全体が津波に呑み込まれていった。東西に海から高台方向に通じる街路が津波の通り道になった。津波は鉄骨の建物で遮られてはじけた。鉄骨の建物と鉄骨の建物の間で「コブラの頭」のように立ち上がった。木造の建物は見る影も無く壊れた。鉄骨と鉄骨の建物の間を通る波は、何匹もの「コブラ」が鎌首をもたげたようであった。波はまるで巨大な生き物のようであったと佐藤さんは語る。青葉公園から「コブラの頭」が街に押し寄せる情景を見て、佐藤さんは2回目の腰を抜かしてしまった。

佐藤さんはしみじみと述懐した。
「その日は、たまたま外回りでした。仕事の整理があったので、会社の向かいの路上に車を停めていたのです。いつもは会社の裏側の駐車場に車を停めていました。地震のショックで腰が抜けましたから、駐車場に車を取りにはいけなかったでしょう。本当にたまたま震災の時間帯に車を路上に停めていたこと、避難する人と反対方向に車が向いていたことで助かったと思います。皆が避難する方向に走ったら渋滞に巻き込まれて助からなかったでしょう。いつも停めている駐車場か、生命保険側に車を停めていたら完全にアウトでした。」と。

2011.3.11。佐藤さんの車はこの様に、
避難経路と反対方向を向いていた。

ようやく、瓦礫が一箇所に積み上げられるように
なった釜石市。(2012.5)

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移り行く震災地の点描 2012年8月〜12月

2011年4月に被災地(岩手県)入りしてから、一か月に3日〜5日間、釜石市、陸前高田市、大槌町などで震災者の声に耳を傾けてきました。
震災地の四季は巡ってきますが、震災の復興はまだまだ巡ってきません。
3年間は被災地に通って復興の形と震災した皆さんの生きる希望と勇気を見届けたいと思います。
2012年8月〜12月までに撮影した震災地風景をホームページに掲載いたします。

2012年8月

釜石観音の朝

盆踊り風景(釜石市)

大槌町の道端に咲く希望のひまわり

瓦礫の中から見つけた写真を展示するボランティア(大槌町)


2012年9月

大槌町の倒壊した墓石(江岸寺)

1.9mの盛土の高さを示す電信柱(大槌町)

亡くなった人に手向けられた花(陸前高田)

瓦礫と無音の町陸前高田に咲くひまわり


2012年10月

瓦礫の片付いた釜石市の中心街の風景

サーフィンで楽しむ若者と瓦礫撤去作業(釜石市)

浜辺を清掃する外国人ボランティア(大槌町)

大槌町の獅子舞(住民に元気が戻ってきた)


2012年11月

見事な紅葉と雑草に覆われた大槌町の風景

ポケモンに戯れる子供たち(大槌町)

俳優田中健さんと秋田県の民間団体が釜石市で朗読劇「兄のランドセル」を行いました

大槌町の江岸寺で震災の状況を聞く田中健さんと山本ゆきさん(自殺対策基本法制定の立役者山本孝史さんの奥さん)

震災で焼け落ちた江岸寺の鐘楼

墓石の整理が出来るのはいつのことやら・・・


2012年12月

大槌町で被災した住宅に献花する

復興が一向に進まない大槌町両石地区

12月3日にオープンした小川旅館(絆館)の女将とご主人とともに

喫茶(萌芽“めばえ”)仮設の店舗で喫茶店を始めた大和田範子さんと


年の瀬になりました。
秋田は雪が降りそそいでおります。
このホームページを見ていただいた皆様のご健康をお祈りし、2012年の掲載を終わらせていただきます。

佐藤 久男

小川旅館の再興

2013年2月22日

 小川旅館の相談は2011年5月から始まった。ご主人(小川勝美さん50代)が、避難場所に配布したチラシを見ての来所であった。奥さんが大槌町の中心部で旅館を経営していた。旅館は津波で破壊され、その後の火災で全焼した。震災の後遺症と旅館を失った喪失感で奥さんが塞いでいると言う。奥さんと面接の必要があった。次回は奥さん同席の上で相談に応じる旨を告げた。2回目以降は全て勝美さんと奥さん(京子さん50代)同席の相談になった。京子さんは旅館を失った喪失感で生活のリズムが狂っていた。旅館の復興よりも京子さんの心のケアが先決である。じっくり時間をかけて相談を続けることにした。3回目以降は京子さんの心の変化に寄り添う相談になった。心の健康を回復させて、商売ができる心に戻す必要があった。

 小川旅館は明治初期から120年続いている老舗の旅館であった。女将である京子さんとの初対面は「顔色が極端に悪い。心が定まらない」という印象である。『暖簾ある旅館を自分の代で潰すのではないか』と涙を流す。フラッシュバックもあり、欝的で落ち込んでいた。死にたい気持ちにおそわれると話された。
 震災の日、京子さんは長女と共に、自宅から約100キロ離れた盛岡市の病院で母親の看病をしていた。震災と同時に大槌町にいる夫と長男と次男(当時高校生と小学生)の行方が心配になって、盛岡市からタクシーで大槌町に向った。大槌町の市街地まで15キロの地点で自衛隊に「ここからは危険で入れない」と進入を阻まれ、徒歩で自宅の方角に向った。その日は満天の星空であったという。
 歩いている暗闇の向こうは市街地を焦がす火災であった。足下を携帯電話の明りで照らしてトンネルの暗闇を抜け出た。目に飛び込んだのは大槌町の市街地が炎上する光景であった。火事の景色が脳裏から離れないのだ。
 家族は3日後に避難所で再会していた。当時は、全国から支援者が町中に溢れ、被災を免れた民宿や旅館は大繁盛である。一時も早く開業したいと焦りで会う度に心が揺れていた。
 相談の度に「今日はこの前に比べて大分元気になりましね」と京子さんのマインドを引き上げた。一年以上経過した2012年の夏頃から、京子さんは急速に女将の心を取り戻していった。昨年12月3日、小川旅館は、「絆館」として新しいスタートを切った。

 小川旅館の再興に約2年間お付き合いをした。被災地での経営支援は心の支援と事業の支援の二面性がある。復興支援の補助金があっても、経営者の事業意欲やメンタルが回復しなければ、事業の再開は困難である。地域の復興速度と人口の減少、地域住民の感情の顕在化、仮設住宅の孤立死等、多くの課題を抱えたまま復興が進んでいる。長〜い、長〜い支援の必要性を痛感する被災地の経営者支援である。


小川旅館の女将、小川京子さん(食堂で)

大槌町にオープンした新館「絆館」の玄関前)

小川旅館の応援団(青森県のほほえみの会等)

小川さんご夫婦を一緒に


※ 岩手県釜石市、大槌町においでの方は小川旅館を是非ご利用下さい。
(女将のこころのこもった盛り沢山の料理がでます。魚料理はうまいですよ!)
住所 岩手県上閉伊郡大槌町小槌26-131-1
電話 0193-42-2628
fax 0193-42-2642

あきた自殺対策センター 蜘蛛の糸

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